世界は「わたし」を中心に回っている
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自分ってなんだろう。
なんでだろうなんでだろうって考えることはいつだって楽しい気がする。
「自己肯定感が低い」と悩んでいる、もしくは考えたことあるって人は聞いてほしい。
少しでも考えたことがある人は一緒に考えてもらいたいエントリ。
昨今では自己肯定感が低い人が増えているらしいのです。
この記事は、自己肯定感がLV99のようなタイトルを付けました。自己中心的というレベルではありません。自己中心そのものです。
むかし、地球は動いてなくて、そもそも地球は平らで天体が地球を回ってる時代もあったって話ですが、今回は地球どころか自分が世界の中心っていうことなので、「地動説」どころか、「天動説」でもない「私動説」です。
アホらしい話ですが、今日も「わたし」を中心に世界は回っています。
そして「あなた」の世界では「あなた」を中心に回っています。
「あなた」は「わたし」の世界における脇役であり、「わたし」は「あなた」の世界に生きる脇役となります。
「何を言ってるんだコイツは!?」って方はぜひ読み進めてください。一緒に考えてみましょう。
「わたし」は「だれ」なのか。
なにをバカなことを言ってるんだというタイトルかもしれない。
でも、ちょっと考えてみたら面白いんじゃない?って思ったことを記事にしたいと思います。
先日この記事を読みました。
「わたし以外わたしじゃないのか」ってスゴイ哲学的な内容のお話でした。
インスパイアされまくってるので2番煎じ感ありありですが、考えてみるのは面白いのでぜひ自分なりに考えてみてください。
まず、世界が「わたし」を中心に回っている話の前に、「わたし」の定義について考えたいと思います。
「わたし」以外、本当に「わたし」じゃないのか。
考えれば考えるほどわからなくなりそうです。
「理論」ではなく「感情」で考えてみましょう。
「ロジカルシンキング」ならぬ、「エモーショナルシンキング」をしてみましょう。
感じれば感じるほどわかりそうな気がします。
わたしとは何なのか。わたしは一体だれなのか。
どこまでが「わたし」で、どこからが「わたし」じゃないのか。
そんなこと考える暇もなく、目まぐるしく回る日常ですが、ちょっと5分くらい立ち止まって考えてみましょう。感じてみましょう。
自分自身の存在を考えるというのは大事なことらしいです。
「自己肯定感」とか「自己同一性」とかって話らしいです。よくわかんないけど。
じゃあいきますよー
「わたし」はどこまで「わたし」なのか
「わたし」の体は、「わたし」でしょうか。
これは「わたし」です。おそらく。自分の体が「わたし」ではないとすれば、いろいろ困ったことになりそう。
自己肯定ならぬ自己否定です。存在そのものの否定です。生活を脅かすレベルになってしまいますので「わたし」としておきましょう。
いや、わたしの体は「わたし」じゃないってヤツはいろいろと専門家に相談したほうがいい。これはけっこうマジで。
ではたとえば、文字を読んでいる目は「わたし」になるのかな。
自由に動かして、見たいものを見て、読みたいものを読む。
自分の意志で自分の思い通りに動かせる。
これは「わたし」であると思います。そんな風に感じます。目は、つまり眼球は「わたし」としておきましょう。
それでは、文字を映している液晶画面は「わたし」でしょうか。
「わたし」が作ったものではないし、「わたし」が居てもいなくても液晶画面はあるかもしれません。
液晶画面は文明の利器であって、思考も感情も感覚も存在しないただの道具です。
液晶画面を「わたし」ではないと考えます。ちがった。液晶画面は「わたし」ではないと感じます。
ここである疑問が生まれました。
思考も感情も感覚も存在する文明の利器の場合は「わたし」になるのだろうか。
たとえば、AI(人工知能)。
今はまだSFの世界の話ですが、人工知能は徐々に現実味を帯びています。考えるコンピューターは既に存在しています。
もし、「わたし」の記憶、経験、体験を全てコンピューターに移せるとしたら、コンピューターは「わたし」でしょうか。
前頭葉も海馬もすべて電気信号に置き換えることが出来たら、コンピューターは「わたし」足りうる存在になるのでしょうか。
これは「わたし」かもしれません。「わたし」と同一のもので「わたし」のバックアップと言えそう。もう一人の「わたし」っていっても過言ではないはず。
ではもうちょっと身近な例をあげてみよう。
SNSアカウントは「わたし」なのかな。
ツイッターは?Facebookは?インスタグラムは?ブログは?「わたし」になるのか。「わたし」と呼べるのだろうか。
文明の利器ですが、「わたし」が考えたもの、感じたものを発信し、シェアし、拡散しています。
体の一部ではありませんが、「わたし」かもしれません。
「わたし」が創り上げた「わたしの一部」かもしれません。
「わたし」のことを書けば書くほど、呟けば呟くほど「わたし」に近づいている気がします。
「わたし」が「わたし」を認識するほど「わたし」になると言えそう。
ずっと更新してないと「わたし」感が徐々に無くなってくるし、つまりそういうことだと思う。
自分の手の届かないところにあっても、インターネットの中でもどこでも、「わたし」が感じて、考えて、発言して行動する存在は「わたし」になる。
つまり、「ありのまま」であることが、「わたし」であること。
「わたし」が感じ、観測し、認知し、受け入れたものを「わたし」と捉えることができそうですよね。
「わたし」以外の存在
「わたし」というものが何かということについて、ぼくの一方的な独自解釈により一つの仮説的なものとしてが成り立ったところで「わたし」の世界について考えたいと思います。
世界には、もとい「わたし」の世界には何が存在し、存在しないのでしょうか。
「存在」が「存在」するために必要なこととは何でしょうか。
たとえば、宇宙人は存在すると言えるのか。
地球外生命体の存在の可能性については、世界各国いろんなところで議論されています。
ですが「わたし」は地球外生命体に遭ったことはありませんし、見たこともありません。
「わたし」の世界ではあくまでも空想上の生き物。
実際に居たら驚きですが、いるのかいないのか「わたし」が知ることができないので「わたし」の世界では存在しないってことになります。
身近な話でいえば、友達や恋人だったら?
最初はただのクラスメイトやバイト仲間だったはずですが、記憶にはしっかりと残ってる。
今となっては名前すら思い出せない元クラスメイトより明らかに大きな存在と言えるでしょう。
「だれか」にとっては大きな存在でなくても「わたし」にとっては特別な存在。
「だれか」と「わたし」では人や物に対しての認識が異なる。
「わたし」が認めたものしか存在しない世界
つまり、「わたし」以外の存在を定義しているのは「わたし」ということになります。
「だれか」が脇役になるかも主役になるかも、すべて「わたし」のキャスティング次第ってことですよね。
「わたし」の世界に登場させるのもさせないのも「わたし」の自由。
そして「わたし」が感じない、観測しない、認知しないものは「わたし」の中で存在しないもの。あるかもしれないし、ないかもしれない。
サンタクロースを信じている人の中に、サンタクロースは存在し、
死後の世界を信じている人の中に、死後の世界は存在し、
神様の存在を信じている人の中に、神様は存在しているのでしょう。
これらのものは「わたし」の中には残念ながら存在していませんが、「だれか」の中にいる存在していることを否定する根拠にはなりません。
「わたし」の世界
つまり「わたし」と「だれか」は違う世界を生きています。
「わたし」と「あなた」も違う世界を生きています。
「あなた」の世界は今日も平和ですか?
素敵なことで溢れていますか?
毎日がドラマチックでエキサイティングで心躍る展開がありますか?
ついつい読み進めたくなってしまう小説のような物語ですか?
それとも、眠くなるようなつまらない世界ですか?
「あなた」を中心に回る「あなた」の世界を「わたし」は認識できません。
「わたし」の世界では「わたし」が観測した時点で、「わたし」の中に存在するものになります。
「わたし」が認知する度に「わたし」の世界が無限大に拡がっていきます。
「わたし」が受け入れないものは「わたし」の世界から排除され、最適化されていきます。
「わたし」の世界を、最高におもしろくするのか、つまらないものにするかは「わたし」が決めることであって、「わたし」にしか決めることができないものになります。
ピンチもチャンスも紙一重
しかし世の中には「わたし」が干渉できない事柄ももちろん存在しています。
政治は?
経済は?
自然現象は?
どうにもならない運命的なものは?
「わたし」がどう捉え、どう感じるかで変化するんでしょう。
不利な境遇に立たされても「ピンチ」と捉えるか「チャンス」と捉えるかで大袈裟かもしれませんが、捉え方次第で世界は分岐します。
「失敗」しても「失敗」と認識しなければ「失敗」ではありません。
「後悔」となるか「貴重な経験」となるかは「わたし」次第です。
酸っぱいものを「まずい」と感じるか、「美味しい」と感じるかくらいの違いでしかありません。本編の物語となるのか、サイドエピソードにすらならない程度の出来事なのかも「わたし」次第です。
世界の中心で「わたし」と叫ぶ
つまり、「わたし」の世界は、今日も「わたし」中心に回っています。
今日も「わたし」は「わたし」の世界の創造主として「わたし」の世界を拡げていきたいと思います。
「あなた」の世界は、「あなた」を中心に回っていますか?
「だれか」に振り回されてるなら、「だれか」に振り回される世界を望んでいるということです。自分の中で、無意識の中で。
自分で決めることが面倒くさい。
自分で決断することができない。
「だれか」に動かしてもらいたい。
そう考えると「だれか」に振り回される世界になります。
「あなた」の世界を創っている神様にも等しい存在の「あなた」が、「あなた」の世界を放棄することになります。
「だれか」は「あなた」の世界を創ってくれる救世主ではありません。脇役です。
「だれか」に振り回される世界を創っているのは「あなた」です。
「わたし」の世界って結局、「わたし」しか理解できないんだろうなーってことをモヤモヤモヤっと考えてました。
ひとそれぞれちがう「わたし」。
71億の「わたし」がいて、71億の世界がある。
▼自分で自己肯定感が低いと感じる人に聞いてほしい曲貼っときます。
もちろんぼくの個人的な考え方で感想なので人それぞれ感じることは違うのでしょうけど、よければぜひ聞かせてください。
それではっ!